我慢 忍耐 宥恕(ゆるす)

第20号発行より

我慢 忍耐 宥恕(ゆるす)

「愛」の初回発行分より、今回で20回目を迎えますが、一貫して説かれておりますのは「感謝すること」である事に、お気づきになられましたでしょうか。

その都度都度にタイトルは変わり、表現も変わりますが、根底にありますのは人間らしい人間としての心構え、「感謝の精神」であります。

しかしながら、この「感謝」の心が心底より湧き上がるまでには、相当に辛抱して通り過ぎなければならない期間が必要となってまいります。

そこで今回は、我慢、忍耐、宥恕(ゆるす)について考えてみましょう。

「我慢」

我慢と忍耐は辞書の意味から考えますと、いずれも耐え忍ぶ・辛抱するとの同じ内容となりますが、これを少し分けて考えてみたいと思います。

「自我を捨てなければ苦しみを捨てることは出来ない。それは火を捨てなければ火傷を免れることが出来ないことに等しい」との言葉が御座います。

「我慢」は、この自我に縛られ、自分が自分がとの思いにばかり捕らわれて、何のための苦難であるのか・問題であるのかが理解出来ず、辛抱しなければならないから・耐えなければならないからと不足不満の思い、或いは怒りに身をよじりながら、しかたなしにしている辛抱が「我慢」ではないでしょうか。

ですから、この「我慢」をしている時に、人から同情や評価が得られないと自分の我慢が必要以上に辛く苦しいものだと感じ、「我慢している」との思いが抑えられなくなって、自分がどれだけ大変であるか、或いは置かれた立場がどれだけ不当であるかを訴えずにはおられなくなります。周囲の気持ち・状態にまで心を配るゆとりがなく、自己の持つ因縁の働きの中で、心が不満だ不満だと叫び続けるわけです。

日常生活の中から簡単に例えますと、

会社勤めの方の場合、

仕事の内容が嫌いだ・同僚が嫌いだ・給料が安いなどなどの不満を持ちながらも、生活のために、辛抱して仕事をするのはよくある事です。
このような状態にある人の心は抑えがたいうっぷんで一杯です。

ちょっとした注意を受けても「この程度はいいじゃないか」「これは自分ではなく同僚Aのせいだ!」と、どうしても自分の責任であると認める事が出来ません。反省できないのです。

そのために、不満がますます重なる結果となり、仕事上の手違い・失敗を誘発する原因となってしまいます。

また、家庭の主婦の場合、

夫が協力してくれない・やりくりが大変・自由に外に出れない・子供の世話が大変・でも子供のためにも別れられないと言った具合に、日常生活を生きた勉強場所としてとらえられないために、自分だけが我慢していると思い込んでイライラしている人が多いようです。

その為、精神疲労が重なり、躾にはほど遠い子供への八つ当たりや、家庭内のいざこざとなって表面化してしまいます。

このように、自分は我慢している!と思うことによって、不満は不満を呼び、自分を省みる事が難しくなりますので、我慢する事・問題や苦悩が何故生じるのか、何のために必要なのかを理解しようとしない限り、我慢は延々と続くことになるのです。

「忍耐」

忍耐はやみくもに我慢する事から一歩進んで、耐えなければならぬ時(時期)・黙って耐えるべき事(内容)を耐える。つまり、その意味を知って耐え忍ぶことを言います。

よく忍耐した事によって逆境を跳ね返し、成功されたお話は皆様方もテレビなどを通してお聞きになった事があるかと思います。

その中で、どなたでもご存知で、名前を聞けばなるほどと頷かれるのは「ヘレンケラー女史」ではないでしょうか。

彼女は目は見えず・耳も聞こえず・口も聞けないという三重苦の中で、礼儀はおろか人間らしさから、ほど遠い生活を送っていましたが、家庭教師サリバン先生と巡り合う事によって、全く違った方向へと人生が歩き始めました。

見えない・聞こえない・話せない現実を、覚悟して受け入れて取り組まれたサリバン先生の不屈の努力が奇跡を呼び起こし、少女をやがて世界中の人達に希望を与える人となりました。

これはあまりにも有名ですが、私達が考えねばならないのは奇跡そのものではなく、それを呼び寄せた忍耐力であり、不屈の精神力です。
一つの文字・一つの動作を習得するのに一体どれだけの時間がかかったのでしょうか。教える方も教えられる方も、何度も癇癪を起したのではないでしょうか。もうだめだ・これ以上は無駄だと、何回も絶望感に襲われたのではないでしょうか。

しかし、見えない事を見えないと怒っても解決しません。聞こえない事を聞こえないと怒っても先には進みません。良い方向を探す旅への出発条件は、辛い現状をそのまま受け入れる事です。自分には必要な事・生きる上で避けて通れないと受け入れるのです。そうでなければ険しい道程を進む勇気と辛抱する事への覚悟もいい加減なものとなって、出発前後から挫折してしまいます。忍耐しながら進むことが出来ません。

ない物はない。欲しがっても手に入らない。ではどうしたら良いのかと申しますと、

「無い」事から学べばよいのです。

他人にあるものが自分になければ、「無い」事が自分にとって当然の事であり、そこから出発すべきだと割り切る事です。他人の幸福をうらやんだり妬んだりしても幸福は回ってきません。自分が今手にしているのが苦労ならば、苦労を料理して自分の栄養にしてしまう工夫が一番早い解決法なのです。

「現実的でありなさい。そして奇跡を計画しなさい。」という言葉が御座いますが、現実を直視して冷静に状況を分析いたしますと、落ち込んだり、あわてている時には見えなかった事が見え、解決の糸口をつかむことが出来るものです。

ですから、現実直視に加えてプラス思考の工夫と忍耐の力で、どうにもならないと思っていた事・実現不可能だと思っていた事も可能となるのです。

しかし、耐えねば解決がつかない。恨んで嘆いても進歩にはつながらない。一歩先に進むためには耐えるしかないわけです。生かされている喜びを味わうには目の前の困難に立ち向かって乗り越える以上に最良の方法はありません。

≪自分が≫ という ≪我≫ から離れた忍耐の先には必ず希望が扉を開いて待ち受けているのです。

「宥恕(ゆるす)」

お釈迦様のお弟子さんにアングリマーラという方がおりました。

彼はバラモンに弟子入りしていた時、師の妻からの誘惑をはねつけた為、この妻は彼が自分を誘惑したと嘘をバラモンに告げたのです。

バラモンは破門する代わりに罪の償いとして百人の男女を殺すようアングリマーラに命じました。無実の罪をきせられた彼は困りましたが、師の命令は絶対であると考え、心を鬼にして人々を殺し続け、百人目にお釈迦様を殺そうとした時に、お釈迦様に諭され弟子入りした方です。

仏弟子となった彼を町の人は許しませんでした。外出するたびに罵詈雑言・石を投げ付けられます。

彼は泣き腫らした目で、「これから自分はどうして生きていったらよいのでしょうか。」と訴えます。

そんな事が何日も続いたある日、お釈迦様は、「アングリマーラよ、あなたはそれに耐えなければならない。今、あなたは自分の過去になした罪の報いを受けているのだから。それから逃げる事なく、じっと耐え忍ばなければならないのだ。」と諭しました。

私達もこのように真実がどうであったかは別と致しまして、結果のいかんによって周囲の非難を浴びる事はしばしば生じます。たとえ、罠にはめられて悪事をなしてしまったとしても、したという事実への責任はとらなければなりません。アングリマーラではありませんが、私達が忍耐しなければならない時には、必ず原因となるもの、それは味わうべき理由があるのです。

ですから課題として与えられる問題や試練に対して腹を立てたり、恨みを抱いたりせずに当然の事として受け入れ(ゆるし)て下さい。
あなたが過去世において人を打った事があるなら、貴方は人が貴方を打つ事を怒るわけにはいきません。犠牲者の怒りが治まるのをじっと耐えねばならないのです。許してくれるまで待たねばなりません。

困難も悪意も受け入れる(ゆるす)努力をする事によって、貴方は、人をゆるす事がゆるされる事である事に気がつくはずです。
さて、貴方が今されておられる事は「我慢」でしょうか?「忍耐」でしょうか?

それとも「ゆるす」事に徹して許される事を味われているのでしょうか。

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